ごはんとからだ

一度死んで「障害者」になったけど、わたしはぜんぜんカワイソウじゃない。

平成31年4月1日。
新年号発表の話題で持ちきりだろうと、今日はわたしの28歳の誕生日。

そして、平成最後の7月13日。
これがわたしの、1度目の命日。

あの日、わたしは人生を終えることにした。

炎上はすこしずつ、精神の首をしめはじめる

1年前の今頃のことを思い出そうとすると、今でも心臓がひやひやする。

結婚が決まって、やっと「家族」と呼べる人ができたから、だから過去に遭った出来事を形にして残すことに決めた。
人生ががらりと変えられてしまった記憶を、なんとか昇華するために。そして、同じ目に遭ってしまう人がこれ以上ぜったいに、1人だって増えないように。ひとりぼっちにさせられてしまった人が、それを嘆く夜にきっと見つけてくれるように。

反響は、わたしの予想していたものとは大きく違っていた。だれかやなにかへ対する批判ではなく、エピソードだけを共有したかったから、まったくそういう訴求から離れた表現をしたつもりだった。
だけど、内容に対する疑惑は人々のなかで渦巻き、わたしの告白は「告発」なんて言われ始めた。

そうして糾弾された該当の団体は、わたしのことを「反逆者」のように認識したようだ。どうにか責任逃れをしようと、さらに嘘ぶきはじめたのにはびっくりした。
事実とはほとんどかけ離れた公表をして、物事を「ハイ、終わり」で済ませられる人たちのほうが、もしかしたら世の中は泳ぎやすいのかもしれない。

にちゃんねるって凄いよね。わたしの発言や動向は1ミリ単位で監視され、うがった見方で勝手に代弁され、当事者の気持ちは置いてけぼりにされる。

周りから「面倒ごとにはかかわりたくない」と思われているのを肌で感じていた。

そして、だんだん人をさけて口数少なく過ごすようになっていった。

自殺未遂と措置入院

決定打は、弟の結婚式だった。

わたしはここ数年、実家とは物理的に距離をおいて過ごすことを決めていた。もともと仲の良い家族ではないし、そもそも母と祖母の連絡先以外知らないし。
東日本大震災のおかげで人はいつとつぜん死ぬかわからないと体感できたから、「仙台」を捨てて都会に出てきた。この人生のなかで、もっとも最善の選択と転機だったはず。

実家を出るまで、知らなかったことがたくさんある。
家から通える距離の国立の良い大学に行って公務員になって公務員とみんなよりちょっとだけ若く結婚して男の子と女の子を産むのがベストな人生なわけじゃないし、進学校に受かったのに不登校になってそれができなかったわたしは別に負け犬じゃなかった。

一軒家とかアパートとかそういう家族の容れ物で家族の価値は決まらないし、片親は恥ずかしいことじゃないし離婚しないで両親が揃ってることはべつにえらいことでもないし、親戚は「悪口を言うための格好の相手」じゃない。

毎日毎日、親のものさしから自分の価値観がすこしだってはみださないように神経をすりへらさなくたって、笑って過ごしたっていい。

そんなの、ぜんぜん知らなかった。知らなかったしもう知ってしまったから、「知らない」人たちとはもう付き合いたくなかった。

1年前の今頃は、浮かれた声で母から電話がかかってきたんだった。
ハタチそこそこの、末の弟に子供ができたから結婚式に来いというので、「遠慮しますね」と断ったら、「きょうだいの式に参加しないなんて非常識だ」と罵られたのだ。

きょうだいもなにも、わたしは末の弟がどういう人間なのか、まったく知らないし、血が繋がっているというだけで思い入れもない。
最後に話したのは彼が小学生のときだし、実家に住んでいた頃、家族間の会話というものはほとんどなかったから。
そして、わたしには毎日怒鳴っていた母が、弟たちをどんなに甘やかしてきたかずっと目の当たりにしてきたんだから。

ふだん連絡なんてよこさないくせに、定期的に送られて来るようになった式についての相談のラインを読むたび心はささくれて、泣きながら「クソババア」とつぶやくわたしを見て婚約者は爆笑していた。
笑いながら、「自分の家族にもなる人の式だし、お祝い半分出してあげるから。行っておいでよ」と言ってくれた。

わたしもわたしで、結婚が決まって浮かれていたのかもしれない。
「自分が結婚したり子供を産んだりしたらもしかしてやり直せるんじゃないか」なんて期待してしまうなんて。

結婚式の前日、準備を手伝うために久しぶりに訪れた実家は、やっぱりわたしにとってあの時のまま地獄そのものだった。

「知らない!あいつらが勝手に結婚したんだからあいつらに聞けばいいでしょ!」
招待状すら用意されていなかったから、ゲストへの連絡のために来場時間を確認すると、母のいつものヒステリーがスタートした。
申し訳ないけれど、わたしは弟の連絡先を知らない。

だんだん息が浅くなって、過呼吸になる予感がした。両親と話していると恐怖で勝手に涙が出てくる自分の癖をすっかり忘れていた。
「電話するから」と嘘をついて乗れもしない車の鍵を借りてとりあえず駐車場に避難をした。

正確に言うと、嘘でもない。当時は、くだんの炎上に対して被害者側であるわたしの話を聞きたいと、いろんな新聞社から連絡がきていたのだった。
だから、「親に聞かれたくないことをしてるのか!」という追求にはもう耐えられる状態じゃない。
その後、車のなかで何時間も過呼吸がおさまらず、救急車を呼んだが「両親に見つからないようにサイレンを消して助けにきてほしい」という願いは聞き入れられず、這うようにして室内にもどった。

酷い顔で泣き喚きながら床に転がって、苦しさでのたうちまわるわたしを、両親はゴミを見るような目でながめていた。

ひゅうひゅうと鳴る呼吸のなか、「お願いです。今は新幹線に乗ってここまで来るのもしんどいくらいの状態だから、普通に、建設的な話し方をしてもらえませんか。急に怒鳴られたり、だれかの悪口を言いはじめたりするのに、耐えられない」となんとか伝えたら、今度は父親のいつもの「なんなんだ!お前は親をバカにしてんのか!?」がはじまった。

その後のことはあんまり覚えてない。思い出したくないのかもしれない。

次の日の朝は、パンパンに腫れた目をごまかすように厚塗りのお化粧をして、振袖を着て、せいいっぱい「姉役」をつとめた。
弟の上司にビールを注ぎに行く祖母の介助をし、ゲストに笑顔で挨拶をし、あまり知らない彼への世間話に相槌を打った。
「お姉ちゃん、先越されちゃったね」と嫌味を言う叔母にも、「結婚するの早かったんじゃない」とか「子供ができたなら仕方ないけど」とか「お嫁さん、父親いないんだね」みたいな話しかしない親族席にも心底うんざりながら、「まあまあ、お祝いの場だから」とたしなめた。
いままでも、これからも、それがわたしに求められる役割だと思い込んでいたから。

だけど、弟からは一言の挨拶も、「ありがとう」の言葉も、やっぱりなかった。

もうわたしは外の世界にいるから、それが”普通”ではない環境だって、もう知ってる。

結婚するということは、この「家族ごっこ」の状態をいつか婚約者にも目の当たりにされるということ。
みっともなくて、恥ずかしくて、そんなのぜったいなんでもないようにふるまい続けたかったのに。

短い期間でふいにわいた結婚の話だったけど、わたしは、屈託がなくいつでもなんでも笑い飛ばしてくれる彼が本当はとてもすきだった。
だから、東京の部屋に戻ったあと、せめて籍を入れる前にと自殺をはかった。

死ぬことよりも、死ぬのを失敗することのほうがこわい

経緯は割愛するけれど、それはすぐに見つかってしまって、警察に通報された。するとどうなるかと言うと、希死念慮・いわゆる自殺願望を持つ人間に対して国が法的に実力行使をする権利が発生するらしい。

6時間も警察署の一室に閉じ込められて放っておかれたあと、拘束された状態で救急車で運ばれ、精神科に強制入院させられた。
「連休中は医師がいないから」とベッドに全身をくくりつけられて、今度は4日もそのままだった。
他人にトイレの介助をされるのが情けないし、”生きる”ための行動をしたくないから食事は摂らない。天井を見つめながら「どうしたら確実に自分を殺せるか」を考えるには、24時間はあまりにも長い。

「もう死ぬ気はない」と嘘をつかなければ永遠にそのままだと理解して、次の診察のときにそう伝えた。やっと拘束は外されて、今度は刑務所のような一人部屋に閉じ込められることになった。

「措置入院」という制度では、医師の許可がなければ戸籍上の家族以外に連絡をとることは許されない。救急車で運ばれたので、もちろん携帯もパソコンもない。唯一使える公衆電話に入れるお金も取り上げられたまま。
頼ってもいい身寄りの協力がなければ、入院に必要な生活用品どころかパンツすら手に入らないのだった。

1週間ほど経った頃、病院側から呼び出されて面会にやってきた両親は、医師の方にだけ身体を向けて「ご迷惑をおかけして…退院後はわたしたちがサポートします!」と誇らしげに告げ、わたしにはなにも言わないまま帰っていった。

婚約者とわたしは、フェイスブックもツイッターもインスタグラムさえ、なにひとつSNSで繋がっていない。
彼は連絡のとれなくなったわたしに、毎日のように電話をかけてメッセージを送り、SNSを調べてそれぞれでダイレクトメールを送り、いつかも覚えていないようなたわいのない会話の内容を頼りにわたしの友人らしきアカウントに向けて発信を続け、懸命に所在を捜してくれたようだった。

それを知ったのは、2週間も経った頃のこと。
いよいよと捜索願いを出そうとして警察越しに入院している事実を告げられ、病院あてに手紙を送ってきてくれたからだ。

「心配しています、とにかく連絡をください」と一言だけ書かれた便箋と、テレホンカードが同封されていた。

それからなんとか医師からの許可を待って、ふるえる手で電話をかける。

久しぶりに聞く声で「とりあえず、そっちに行くから面会の許可をとって」と言って、数日後に会いにきてくれることになった。

当時、石垣島に住んでいた彼。夏のオンシーズンまっさかりでバカ高い航空券のはずで、激務なのを知っていた。
だから、会いに来てくれるなんて思わなかった。

まだ籍をいれていないので「友人」の扱いになり、結局面会時間はたったの30分。

きっと、それ自体が、他人からしたら「なんで」と思うようなことなんだろう。
なんで死にたいのか、死のうと思ったのか、何度聞かれても「なぜわたしに生きる価値がある前提なんだろう」としか思っていなかった。
だけど、初めて見る彼のけわしい表情に「なんてバカなことをしたんだろう」とやっと気づいた。

わたしがいなくなっても、捜したり、自分の時間を割いて話を聞いたり、自分の意志で会いに来てくれる人間がこの世にいることを知らなかったから。
そして、それが家族ってことで、家族になる覚悟だってことも、わからなかったから。

もう、なにもかもバカで、遅すぎた。彼は、なにもわたしを責めなかった。だけど、「自分が同じ理由で母親を亡くしたのを知ってるのに、そういう行動を起こす人を自分の子供の母親にはできないから、婚約は白紙にしてほしい」と告げられた。

ADHDと障害者に”なる”こと

「死ねばもうだれにも迷惑をかけない」と思い込んでいたのには、もうひとつ理由がある。

わたしには、できることとできないことに物凄く差がある。数年前、とあることをキッカケにADHDという脳の障害を知った。
そして、クリニックに出向き、カウンセリングで「ほぼそう見て間違いない」という診断を受けていた。
ただ、高いお金を払ってもうすこし高度な検査を受けないと、正確には認められないとのことだった。

最初の診察を受けようと思ったのは、自分がライターとして仕事を続けて行きたかったから。
ふとしたときにトラブルに繋がってしまう原因は把握しておきたいし、ずっと苦しんできたことが障害のせいだったと知ることで、やっと”努力”以外に対策をとる手立てが見つかったから。

そして、自分の仕事を通して同じ理由でマイノリティに苦しむ人の力になれるかもしれないという可能性はなによりの希望になったから。

措置入院というのは、東京都であれば都知事の許可が降りないと退院の許可が出ないそうだ。法的に大きな執行力を持つそれは、通常3ヶ月ほどかかるものらしい。

入院中、彼に告げられた婚約破棄は、さらなる絶望でしかない。

わたしは家族が欲しかった。それはもう、叶うことはない。でも、結婚がなくなったことよりも、あんなに優しい人に、あんな顔をさせてしまった。なんて酷いことを、もう、どんなことをしても、取り返しがつかない。そう思う時間が、いちばんつらかった。

だけど、彼が帰って行った後、病院にまた荷物が届いた。
なかには「あなたは体力がなさすぎます。そして、病人に甘んじていたら入院中にさらにそれは落ちていきます。これを読んでやり方を勉強し、毎日筋トレをして電話で報告するように。そしてその入院を意義のある時間にするように」という内容の手紙と、本と、テレホンカードが入っていた。

わたしは、遅すぎるほど遅くても、自分に対してそこまで向き合ってくれる人間がこの世に”いる”ことをはじめて知れた。

だから、生きてみようと思った。

とくに精神病は認められず、保障のないフリーランスなので一刻も早い退院をしなければ社会復帰がより難しくなることから、どうにかこうにか頼み込んで1ヶ月ほどで退院できるように担当医が動いてくれることに。

その間に発達障害の一種であるADADの検査をきちんとして、障害者手帳を発行して社会保障を受けることで退院後の生活を再スタートさせることが決まった。

やっと退院の許可が降りたのは、実家に居場所がない思春期の頃からずっと人生の支えにしてきたaikoのライブがある3日前だった。

入院生活ですっかり体力の落ちた身体で、それこそ命からがら向かったその時間のなかで、彼女はわたしのいちばん好きな曲を歌ってくれた。


「楽しいことなんて
この世には死ぬほどたくさんあるのよ
だから笑うの 笑ってもっと逢いに行こう」

読者のみなさまへ/28歳とこれから

こんなに長くて、しんしんと暗くて、ごく私的なお話に、ここまで目を通してくださって本当にありがとうございます。

27歳は、くだんの炎上にはじまり、実家との決別や、自殺未遂、婚約破棄と、怒涛のように過ぎて行きました。
やはり人間である以上、心から情けない話ですが、社会人としての自分を保てない時期も続きました。

自分の状態を適切に伝えられずに長期入院をしたことで、仕事がなくなったり、多くの人に大変な迷惑をかけてしまったり、それまで交流があった人と疎遠になっていったりしたけど、そのぶん、一緒に楽しい時間を過ごせる人たちの存在を実感できるようになったり、自分に優しくできるようになってきた1年でした。

正直、生まれてきてよかったって、感じたことがないんです。産んでもらったことに感謝したこともありません。
でも、「生きててよかった」って思える瞬間は、増やしていきたいと思うんです。

だから、いつぶりかのひとりきりで過ごす誕生日に、27歳に1度死んでもう1度生まれたわたしに、せめて自分だけは「おめでとう」を言ってあげたくてこれを書きました。

お世話になった担当医が言うには、「あなたは理性的に会話ができるし、脳の障害はイコール頭の悪さというわけではないから、自分が症状を把握できていればやっていけないことはないよ。あの両親とさえかかわらなければ、大丈夫」だそうです。

母には「発達障害の人って考えなしに行動しちゃうから、簡単に命を粗末にしたりするのね」と言われました。「もしあなたが物事をよく考えてるって言うなら、病気じゃないんじゃない?」とも。

こういうことを発信すると、「被害者意識が強すぎ」なんてコメントが必ず投げられてきます。

はたして、だれが正しいのでしょう。

世の中には、どんな見方の人も確実に存在します。だからこそ、わたしは「そんなことないよ」と伝えていきたいのです。

やっていけるとは言っても、そのせいで誰かに迷惑をかけてしまうことが多いのはやっぱり消えてしまいたいくらいしんどい。
だけどわたしが悩みに悩んできたからこそ得た思考や工夫は、絶対にどこかのだれかの救いになる日もくるはず。
そして、被害者というのは”突然そうさせられる”もので、そこに優劣なんてあるはずがない。

人間は、たったひとつのことが原因で「死にたい」なんて思わない。

そんなときに、わたしが見てきた世の中のB面が、きっとなにかに寄り添えることもあると思うのです。

だから、この春、そんなときにふとひとやすみできるような読み物のサイトをオープンさせることにしました。

このサイト内で、来週、どうしてこれを立ち上げたのか、この記事の続編になるようなものを出します。読んでくれたら、うれしいです。

自分のハンデを公表することは、それ自体がハンデになることもあります。でも、リスクを負うとしても、なんでもないように笑ってやり過ごすのは、もうやめます。

わたしには障害のせいでどうしてもできないことがあるけど、逆境のおかげで「わたしだからできる」こともたくさん増えたから。

失ってきた時間や信用はもう、どんなに嘆いても取り戻せない。だけど、コツコツ”生きていく”ことが、なによりも強くこの意思を伝えてくれますように。



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